顔色を窺う
これまでの人生で、人付き合いの根底にあったものの中に、他人の顔色を窺うということが多かったように思う。
相手の機嫌を損ねないようにとか、好かれよう、気に入られようとする気持ちが自分の中に常にあったように思う。
何も平和主義的な考えを持っている訳でもなくて、単に嫌われると自分の居場所が無くなってしまうのではないかという恐怖心があったのだと思う。
だが一方で、自分の中で吹っ切れた感覚があると、何も好かれなくても良いなどの感情が出てくる時もあるが、そういうことはある程度物事が進んでいったときである。
大抵は、相手の顔色を窺いながら、仲良くしなければいけないというような義務感を抱いて生きてきたように思う。
いざこざが嫌い
なぜ、誰とでも仲良くしなければいけないというような義務感を抱くようになったか。誰でもそうかもしれないが、いざこざ、揉め事、言い争いが自分の周りで発生するといい気分はしない。特に私は、そういう場面に出くわすと、萎縮してしまう。だから自分の周りでは、なるべくいざこざが起きないよう、努力したのかもしれない。
私は、相手から怒られる事を極端に嫌う傾向があるな、とこの頃気付いてきた。そのために、怒られることのないように、笑顔を作り、時には冗談を言ったりして、私は害のない人間ですよ〜、良い人間ですろ〜とアピールして生きてきたのかもしれない。
50歳を過ぎて思うことは、人にはそれぞれ色んな考えを持っていて、全く同じということはないということである。よくよく考えてみれば、ごく当たり前のことだけど、そういう思いが出来なくなってしまう時もある。
怒られるということについても、物事には色んな見方があり、それぞれ意見の相違というものも発生する。意見の相違に対して、真っ向から立ち向かうと軋轢が生じ、いざこざの原因にもなる。
必要以上に怖がる必要などない
怒られるということ、意見の相違があること、こういった事に対して必要以上に怖がることもないんだと、気付くことが私にとって大事なのではないかと、感じるようになってきた。
相手には当然人格があるので、尊重しながら接していく。最初から無理に友達になろうとか、仲間にしようとは考えない。 ゆっくりと相手の事を見極めながら、気が合えば、それはそれでよしとし、気が合わなければそれまで。人として礼儀をわきまえながら付き合っていくまでのこと。
人は一人では生きていけない。誰かから支えられ、誰かを支えながら、助け合って生きていける。無理に自分の気持ちを曲げて、仲間になろうと思わなくても、世間はそれほど厳しいところではないと思う。
お互いを尊重し合いながら、自分のペースで生きていきたいと思う。
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