世の中にある常識を疑う

仕事

学校での常識

 今会社を休職しているけど、管理職になって約10年ほど経って、色々感じることがあったので書きたいと思う。私は、大学進学に失敗し、それから就職活動をして今の会社に入った。うちの会社はいわゆる古い体質系で、色んな規則に縛られながら仕事をしてきた。中には先進的な考えを持っている同僚・先輩方もいたが、そういう方達はうちの会社では少し浮いていた存在だった。

 私も入社して10年ぐらいまでは、会社の規則や慣習などは当たり前というか、あまり気にせずこういうものかなという感じで受け入れていた。それが中堅になり、管理職になったあたりから、少しづつ違和感を覚えるようになってきた。この違和感は何から来るのかな〜とぼんやりと考えていたら、それは多分学校での記憶かなと思い始めてきた。

 うちの夫婦には子供がいないので、今の学校生活がどういうものなのか想像がつかないのだけれども。私が中学や高校生だった30〜40年前は、まずは高校進学までは当たり前で、大学進学も周りの半分近くは行く、という感じだった。それ以外では専門学校などで、就職は恐らく1割以下だったような気がする。高校は普通科だったので、就職する割合は少なかったのかもしれない。いずれにしても、高校を出たら進学する割合が8割ぐらいだったと思う。

 中学生の頃は特に勉強ができる訳でもなく、スポーツはまあまあ、特段目立つ生徒ではなかった。私は中学校の頃の学校の雰囲気があまり気に入らなかった。特に教師の態度がとても気に入らなかった。何というか、先生だからしょうがないかもしれないけど、上から目線で、二言目には「内申に響くぞ!」が口癖のように言っていた。それらが、何か生徒を管理しているような気がして、「内申」という人質を武器に押さえつけるような雰囲気がとても嫌だった。

会社での常識

 何かこの学校での雰囲気が、会社にも少なからず当てはあるのかな、と思うようになってきた。「内申」が「人事評価」になり、その「人事評価」を盾にコミュニケーションが進んでいく。中には「人事評価」には気にせず、自分自信の考えを貫く人もいる。だが自分も含め、多くの人はこの評価に一喜一憂したりするのだと思う。

 会社での人事評価や学校の内申とか、物差しによって人を評価するというのがこれまでの常識だったと思うけど、そういう常識に乗っかる必要もないんだよな、と思えるようになってきた。あまりにも道徳的に外れた、極端な言い方をすれば犯罪に手を染めるような事は論外だが、そこまでいかなければあとはどうにかなるものだと思う。

 人事評価や内申を全否定するつもりはないけど、自分はそこに意味を見出せない。会社であれば、いかにして業績を伸ばせるか、顧客に満足してもらえるようなサービスを提要できるか。社員は、それに向けて自分の能力で最大限貢献できるよう努力する。管理職はそれを助ける。学校であれば、生徒の個性・能力を尊重し、自立できるよう支援していく。

これまでの常識を疑う

 人を見ないで、物差しによって人を見る方が楽だと思う。だが、そういう手法だとその「人」を置き去りにし、心を置き去りにしていると思う。私が思う常識とは、自分で考えずにそのまま周りが思っているレールに乗っかっていく事だと思う。そして、その常識がその人の個性を潰すことになると思う。世の中の流れには逆らわず、だけど常識を疑いながら、自分らしく生きていきたいと思う。

おしまい

 

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