「普通」が一番良い

心の内面について

強迫観念

 これまでの私は何か成し遂げないといけないのではないかとか、頑張ってまとめ上げなければならないといった脅迫めいた思いをずっと抱いてきたように思う。特に管理職になってから、この思いが強くなってきたと思う。

 「べき思考」とか言われるが、こういう思いが強かったように思う。会社勤めをし始めた若い頃はそこまで感じなかったが、中堅になり、そして管理職になった頃からこうしなければいけない、という思いが強くなってきた。

 なぜそういう思いを抱くようになったのか考えてみた。

 これまでの私は棍詰めて何かに真剣に取り組んだ経験がなかったように思う。

 これまでの私は、夢中になって何かを成し遂げた経験が非常に乏しい。そういった思いが、自分にはどうも何かが足りない、もっと何かしなくては自分の存在意義を示せないといった思いを持つようになったのだと思う。

 しかしながら、何かに真剣に取り組んでいないとか、何か成し遂げなければいけないなどは、何も無理をしてそう思わなくても良いんじゃないのと感じるようになってきた。

 一心不乱に何かに取りめることは凄いことだと思うが、そういうことができなければダメだと思おうとは必要ないことだと思う。憧れはするが、それを自分自身に当てはめることは無用である。

 自分には自分しか出来ない事がある。自分の特性や能力をしっかり認識し、できることをしっかりやっていく。

 今思うには、周りの「意識高い系」に惑わされて、自分もそうしなくてはいけないという脅迫観念があったのではないかと思う。

 管理職であればこうしなければいけないとか、新しいものを作り上げなければいけないなどである。

 そこには自分の負けず嫌いな性格も少なからず影響していたのかもしれない。

自分にとっての普通を探し当てる

 よく啓発本を読んでいたが、そういった本を読んではこうしなくてはいけないとか、こうするべきだとか、そういう観念に縛られてきたように思う。

 そういった本を読んでは、自分の特徴、例えば穏やかな性格であるとか、性質とか持ち味をしっかり認識しないままで、周りの考えに流され感化されて行動をしていたのかもしれないと感じている。

 そうなってくると自分が自分でなくなるので苦しくなる。そこには自分にとっての「普通」は無くなってくる。

 自分自身にとっての「普通」を探し当てることが一番大切なんではないかと、思うようになってきた。

 誰が何といっても、それが自分の性分に合わなければ物にならない。しっかりと自分用にカスタマイズしていかないと、自分の良い所が発揮できない。

 一度、周りが推奨している意識高い系のやるべきことを全て捨てて、ごく「普通」に生きてみることにしようと思う。

 変な頑張りを捨てて、自分にできること、自分がしたいことをよくよく絞って生きてみる。やる事の優先順位をしっかり付けてみる感じである。

 自分の器を超えるようなことはしないことである。自分には何か特別な事ができるのではという淡い期待はしないことである。

 そうすることで、他人と比較することの虚しさや、外野から聞こえてくる声なんかは気にならなくなるのではないかと思う。

 ステレロタイプ的な生き方を捨てて、自分の「普通」を貫き通す。そう考えるだけで、気持ちが楽になっていくような気がしてくる。

 そういったところに、穏やかに自分らしく生きてくヒントがあるのだと思う。

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