若い頃はとにかく焦っていた
若い頃はとにかく周りの目が気になっていたし、周りの人が出来ているのに自分だけが出来ていないことに強い劣等感を持っていた。
なにせ、大学は出ておらず高卒で会社に入ったものだから、劣等感の方が大きかったのだと思う。
そのため周りの人に何とか追いつこうと努力をし、啓発本や経済誌などを読んで知識を増やそうとしていた。
若い頃、常に頭の中にあったのは、これは仕事でどのように役立つだろうかとか、向上心を持って成長し続けなければならないなど、焦燥感であった。
一方で、その焦りが勉強するモチベーションにもなったし、仕事に対してももっと色んなことを吸収していこうという向上心に繋がったのは確かだと思う。
また趣味一つにしても、自分が本当に好きなものを選んでいるかといえば、そうでは無かったように思う。どうしても他人の目が気になってしまう。これをしたら他人からどう思われるのだろうかとか。
焦りや他人の目を気にし過ぎるあまり、自分が本当にしたいことが出来なくなっていた。
どうでも良いという感覚
50歳を過ぎ、誰かと比べることにそれほど強い意味など無いなと気付くようになってきた。平たくいえば、他人の目などどうても良いと言ったところである。
他人の表面だけを見て比べることに何の意味もない。表面に出ているのは、その人の「ほんの一部」であって、そこに至るまでにその人なりの様々な経緯や背景、考え方が存在すると思えたからである。
そういったことを一切考慮せずに表面だけを見て、自分と比較して悩むことは、それは道理に合わないことだと思う。
人は同じように見えて、実の所微妙に違っていて、微妙に違っている所を積み重ねていくとそれはそれで大きな違いになってくる。
そして、人は、実は内情はとても大変なのだが、表向きは平然と毅然としているのかもしれない。周りの人に気付かれないように、うま〜くベールを纏っているのかもしれない。
そう言った想像を膨らますだけで、人それぞれ色んな事情を抱えているのだし、自分と全く同じではないと認識することができるのだと思う。
そう認識できれば、いちいち自分と比較して悩むことに意味はなくなり、比較しているだけ時間の無駄であると気づく。そうなると、どうでも良いと思えくる。
仮に、他人の表面を見て羨ましいと思う気持ちが出てくるのであれば、試しにやってみることである。やってみて、自分の性に合っているのであればやる。合っていなければやめる。
変な意地を張らずに、心素直に生きることである。単なる批評家になるのではなく、自分が興味を持ったのであれば、素直に試してみることである。
自分自身に関心を持つ
もっともっと自分に関心を向けても良いのではないかと思う。自分が何をしたいのか、どうやって生きていきたいのかに、真剣に考えても良いのだと思う。
他の誰かの目を気にしているだけでなく、まずは自分自身のことを気にしてあげる。自分自身のことをしっかりと取り扱ってあげる。
人生の後半戦を迎えて感じることは、人生って恐らくあっという間に過ぎ去っていくものだと思う。今は大変かもしれないが、後で考えると何でもない、呆気なく過ぎ去っていっちゃったな〜と感じるものだと思う。
そう考えると、他人の目を気にしている時間は、実の所無いのである。他人の目を気にしているだけ時間の無駄である。そこに気づけるのであれば、もう少し有意義な人生を送れると思うのである。
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