現代は怒りをそんなに感じる必要はない
怒りの感情というものはなかなか厄介である。執念深く自分にまとわりつき、知らず知らずのうちに自分を苦しめることになる。
例えば、自分が正しいと思うことがあり相手方はそう思っていないという場面があったとする。自分は正しいと思うので指摘したいという気持ちが出てくる。指摘したとして、相手にも言い分があり直そうとしない。そこで自分の中になぜ直さないんだという怒りの感情が湧き起こる。
怒りの感情が湧き起こると体内にアドレナリンが出て危険から身を守ろうとする。そのため「防衛感情」といわれている。
この時の「防衛感情」は、相手にも言い分があるということだと思う。自分に対して抵抗している、若しくは攻撃していると感じるのだと思う。
まだ文明ができていない太古の昔には必要な作用だったと思う。動物などの敵から攻撃された時、悠長に構えてられないからだ。素早く危険を察知してアドレナリンを放出し、血圧などを上げて直ぐに行動に移さなければならない。だが現代の社会においてそういった身の危険を感じるような場面というのはそうそうないのではないだろうか。
時にはハラスメントにあったりするかもしれないが、大抵の場合命まで取られることはない。現代においては必要以上に怒りの感情を持つ場面はないのかもしれない。
そこで、普段感じる怒りの流し方について考えてみたいと思う。
出された料理は食べない
身近な場面での怒りについて考えてみたい。怒りを感じる時は大抵自ら喧嘩を売る時と売られた時なのではないだろうか。
喧嘩を売るような時は、前出の指摘する場合も含まれる。要は自分から仕掛けることである。
こういう時によくよく考えることは、仕掛ける対象が自分にとって重要なことなのかどうかである。自分にとって非常に大きな影響があり、行動を起こしておかないと後々大変なことになる場合である。
なかなかこういう時はないのかもしれないが、そういう時は意を決して臨む必要がある。
そうではなく喧嘩を売る場合は、喧嘩を売らない方がいい。身も蓋もない話であるが、自ら仕掛けない方が賢明である。
大抵喧嘩を売る場合は、相手を抑圧したいとか支配したい場合である。怒りに任せて相手を抑圧したとしても相手に恨みを買うし、巡り巡って自分に返ってくる。負の連鎖になる。
考えの違う相手と説き伏せることなどできない。自分に置き換えて考えてみれば直ぐに分かると思う。自分がされて嫌なことはしないこと。これに尽きると思う。
逆に喧嘩を売られた場合を考えてみる。マウントを取られたり、嫌味を言われたりするものあると思う。
こういう時は、出された料理は頂かないという気持ちを持つ。出された料理が美味しそうではないので、黙ってそのお店から出るイメージを持つ。「不味い!」と一言言いたい気持ちをグッと抑えること。一言言ってしまうとその料理のことについて議論しなくてはいけなくなる。
自分に取って不味い料理は不味いのでそれについて議論しない。そっとそのお店から退出する。今後できればそのお店には行かない方が良い。そんなイメージを持ってみる。
自分にとって相手からの発言は不味い料理なので手を付けない。またこの料理にケチをつけ始めるとそのお店から出られなくなるので、そっ〜と退出する。
物の本によると、怒りの感情は自分自身をも傷付けるようである。
怒りの感情は色んなところに潜んでいる。普段何気ないところからイライラしたりする時もある。自分の体調からも怒りっぽくなる時がある。
しっかりと睡眠をとり、美味しいものを食べ、自分を労るような生活を心がけていきたいと思う。
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