ちょっと不真面目に生きてみる

普段の生活

基本的に真面目

 私は基本的に真面目だと思う。言われたことは大抵守るし、間違ったことであれば修正する。約束の時間も大抵は守る。出勤時は始業の40分ぐらい前には出社していた。恐らくだが、周りからも真面目な人であると見られていた。

 学生の頃からあまり不真面目な行動をすると、「そういうイメージじゃないよね。」なんて言われたこともある。自分はあまり気にしないようにはしていたけれども。

 社会人になってからも周りから「真面目」というイメージが植え付けられたような気がする。若しくは、期待に応えるように「真面目」を演じてきたのかもしれない。どっちが本当なのか、自分でもちょっと分からなくなる。

 確かに私は融通の効かない所もある。曲がったことは嫌である。だがそれも度が過ぎてくると息苦しくなってくる。

 そう考えると、自分は実のところ「生真面目」なのかもしれない。ただ単に融通がきかないだけかもしれない。

 物事に対して、こうしなければいけないとか、こうあるべきだとか、そういった考え方の方が強かった感じがある。理屈っぽい所もある。

 だが、こうしなければいけないなど、それはあくまで自分の考え方であって、周りの人全てがそう考える訳ではない。

 冷静に考えればわかることだが、人にはその人なりの考え方があって、自分だけが正しいなどは決してないのである。

 そうやって考えていくと、少しは寛容に、大きく物事を捉えていければ楽になるなと思うようになってきた。そして、もう少し自分自身に対してベクトルを向けて考えても良いのではないかと思うようになってきた。

 道徳に反しないことや、人として間違ったことをしなければ、少々不真面目に生きたって良いんじゃないのかな〜。少し肩の力を抜いて、難しく考えずに、周りの目を気にせず、生きていっても良いのだと思う。

 真面目という言葉には、世の常識というか同調圧力的なものが見え隠れしていると感じる。だから真面目にしていないと、なんか怒られるような気がする。そうしていないとビクビクする。

 しかしよくよく考えてみると、怒られた所で何か失うものはあるのだろうか。他の誰かが私の言動・行動に不快感を持って怒ってきたとしても、それは私にはどうしようもできないことである。

 非礼なこと、侮辱的なことは別として、私が取った行動に対して怒られたとしても、又は批判されても、あ〜そうですか、という他ないような気がする。

 いくら弁明しても、他の誰かとは前提条件が違うというか、考えているスタートラインが違うので、議論にならない。世の中、そういうことばっかりのような気がする。

人の期待に応えない

 何も、真面目でなければ生きていけない訳ではない。真面目に生きていくという根底には、恐らくだが人の期待に応えるという意味合いも含まれているのではないかと思う。

 人の期待に応えて結果が出て、感謝されるということは、それはそれでとても光栄で嬉しいことだと思う。

 だが、人の期待に応えることだけに神経が注がれ、そのために生きていくというのは、とても疲れるし、自分が自分でいられなくなる気がする。

 要は、他人からどう思われようと気にしないことである。人の期待に応えようと無理しないことである。

 人は勝手である。自分が思うような行動を相手がとってくれないと失望したり非難してくる。

 そういった他人の意識からは、遠ざかりたいと思う。心は自由でいたいと思う。

 そんな中でも、人を尊重し、人としての道を守り、世の中の大きな流れに乗っていれば、今は少々不真面目でも充分生きていける時代だと思う。生き生きと、心穏やかに、暮らしていければ良いと思う。

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